Flavor of Life
日々の思いつきとこれまでの旅行記、音楽と本の感想などを稀にアップしていきます。
自分の感じたことをすっと言葉にすることに、ときに困難を覚えることがあります。
うまい表現がみつからない、というか。
「言葉をみつける過程」の記録としても位置づけていけたら、と思っています。

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七転び八起き                 
私は、よくずっこける。
物理的に。

高校の頃は、通学途中に、
駅前のペデストリアン・デッキの上に薄く張った氷の上を
幾度滑ったかわからない。
靴にスパイクをつけようかと思ったくらいだ。(←誇張気味)

今日も、夕方ひっそりと行った学校の階段で、
ずっこけた。
数段すっとばして転げ落ちた、というかなんというか。
ヒールじゃなくてスニーカーだったのに。おかしいな。
無傷です。
ただ恥ずかしかっただけです。

誰もみていなくて良かった。
今日は他にも色々と反省点もあり、
早くこの場から立ち去りたいという思いが余計に募って
即、帰宅。
学校滞在時間、約5分。。。


「間違い」をおかすことは、大いなる時間の節約になり得る。
試みることによって何が可能で何がだめか分かるようになるからだ。
試してみて失敗することにより、
非現実的な目標から逃れることができるようになる。

by Alan Lakein

そうだ、やってもみないで、不安に支配されるのは
おおいに時間の無駄だ。

腰を据えて、まずやってみないと。
: つれづれ : comments(0) : - : posted by kay :
秋の別れ道                 
適宜、虚構も織り交ぜた、
昔の記録。

1.最後に会ったとき、それが最後だとは思いもしなかった
  仕事は楽しい? 
  うん、楽しいよ、と笑った顔がどこか寂しそうだった
  秋を迎えて以降
  大丈夫?ときいたメールに返事が来ることは二度となかった

 
2.「来月一杯でお店を辞めることになりました」
  20代前半のあいだずっと通っていた美容室のお姉さんから
  一通の葉書きが来た
  あれ・・このあいだ髪を切ったときは
  何も言っていなかったはずだけど・・・
 
  数ヶ月に一度しか髪を切りに行かない横着者の私が
  慌てて切りに行った
 
  髪をきる間、やたらと話かけずにほっといてくれるお姉さんとは気が合った
  学部のとき卒業式の予約をしていたのに、
  卒業が不可になって沈んだ声でキャンセルをした私に、
  「来年待ってますからね」と言ってくれた
  その声は温かかった


3.その友達と会うのは1年振りだった
  何となく渋谷から表参道まで歩いた
  煙をあれだけ嫌がっていた彼が、赤信号で当然のように煙草を取り出し煙を吸う
  私は大げさに煙を仰ぎ不快感を顔に示した

  歩道橋を上りながら
  「あの頃は毎日会ってたよねぇ、つきあっているって勘違いされたよね」と
  懐かしく話しかける私の心は、
  なぜか、もう二度と2人で会う機会はないのだろうという
  予感に満ちていた

  それから程なくして、彼が結婚したと聞いた

  彼の好きな音楽も果物も知らない人が妻になるなんて、と
  私はベッドに倒れこんだ

 
4.1年おきに引越しをしていた頃
  一番の親友だったねずみちゃんとぴーちゃんを
  住み慣れたマンションにあえて置いてきた

  遠い道程を経てたどりついた太平洋側の町は
  2月の陰鬱な曇り空の下
  ひどく寂びれてみえた
  ねずみちゃんとぴーちゃんを失った私は、
  至極引っ込み思案になり、
  家のすぐ裏の公園も恐ろしくて行けず、
  窓から公園をひとりぽつねんと眺めていた
: つれづれ : comments(0) : - : posted by kay :
sense of distance                 
約2年前に読んだ櫻井よしこさんの半自伝で、
一番印象に残っているのは、正確な文言は忘れたけれど、
大切な人ほど、一定の距離を保つことが必要だと思う、
という部分。

一生つきあっていきたいと思う人ほど、
お互いにとって心地よい距離を置くことが必要だと
漠然と感じていたので、
本を読んだとき、この部分におおいに共感をし、
線を引いたことを覚えている。

もっとも、お互いの自己開示が親密性を高めることも
経験則上、全く否定することができないから、
バランスをとるのがときには難しく感じることも。


正直に言って、自分が人見知りなのか、フレンドリーなのかよくわからない。
パーティー等に行くと、わりと誰とでも、こちらからの質問ベースで
会話が続けられるので、そういう意味ではフレンドリーなのか。

でも、プライバシーをおよそ持つことのできない田舎暮らしを経験したことで、
プライバシー秘匿の必要性を痛感しながら育ったこと等から、
腹を割って話をするまでに自分の中に壁があり、
その壁を超えることがなかなか難しいように思う。

つまり、知り合いから友達に移行する迄に時間がかかるほうだ。
そういう意味では、人見知りなのかも。

特に、この2年間は、自己防衛本能が働きすぎて、
かなりclosedだったと思う。



今日は、友達に甘えてしまって、
普段だったら決して誰にも喋らないことまで喋りすぎた。

反省。


評価:
櫻井 よしこ
新潮社
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musical chairs                 
今週は二日しかまだ経っていないけれど
十日くらい過ぎた感覚だ。

椅子取りゲームと全体的にそわそわした雰囲気に
肩が懲り気味。
: つれづれ : comments(0) : - : posted by kay :
一人称とgender                 
ぼくは整頓ができない
ぼくは料理ができない
ぼくは掃除ができない
ぼくは芝刈りができない


ぼくは洗濯ができる
ぼくは縫い物ができる
ぼくは本が読める


わたしは勉強をするしかない
: つれづれ : comments(0) : trackbacks(0) : posted by kay :
eye-opening                 
先日ちょっと触れたserendipityによって
昨年の夏、開眼したときの気持ちを言葉にしておいたメモに
加筆修正してみた。

昔から雑誌「cancam」に虫唾が走る私。
怖いものみたさに立ち読みするときもあるけど。
先日、学部時代の親友の家に行ったら
アンチ・cancamであることが判明したので
やっぱり類は友を呼ぶだよなと思った。

cancamはさておき、
私は今、水を得た魚のようにどんどん息をふきかえし
今、やるべきことは、毎日の日課を粛々、淡々とこなすことのみ。
復活したのは友達の存在のおかげで、
周囲の人々によって生かされていることを痛感する。
目下の課題は、克己心の向上。


雑誌キャンキャンなどで「これがモテ服だ!」と
されるような フェミニンな服を着た日には、
一日中、仮装大会かコスプレしているような気分だ。
いや、仮面舞踏会かも。


それはそれで楽しいけれど。時には。
この社会で生きていくために、TPOをわきまえる必要性は痛感しているし。


20代前半は、毎年モーターショーやら展示会やらで
イベコンのバイトをしていた。
心とは裏腹の笑顔。氷の笑顔。華やかなライト。
眩しいカメラのフラッシュが絶え間なく続く。

そして、むくんだ足を摩りつつ、のど飴を舐める舞台裏。

この仕事を紹介してくれた姐さんも私も
女を売り物にするような仕事を育む社会構造に対して嫌悪感を抱く。

それなのに!!!

私たちはそれに乗っかり、そういう仕事をして手っ取り早く旅費を稼いでいる!!
なんという自己矛盾。


帰宅して、化粧と疲労とで蒼白になった顔を鏡で見ながら、
この事態は痛烈なパロディだと思った。

針金のようになったマスカラを扱き落とし、ファンデーションを落とすと、
頬に自分の黒子たちが現れる。
頬にこの星座が見えたとき、ああ、家に帰ってきたんだと
初めてほっとするのだ。


ショーの現場に向かう電車に揺られる自分を心底馬鹿馬鹿しいと感じながら、
現場に着くと能面のように微動だにしない笑顔を振りまいていた。

「演技」から解放され家に辿りつくと、どっと疲れ果てて、
玄関に座りこんだまま動けない日々が続いた。


なんで、スカートでピンヒールじゃないとダメなのか?


メーカーの社員さんが、
「もうすぐ就職活動でしょ? スチュワーデスなんか受けるの?」
と訊いてきた。
「ええ・・・。ちょっと考えてみます」とにっこり答えながら、
なりたいのはむしろパイロットだよ!
それに今の呼称はCAとかフライトアテンダントだし!!
と心の中で息巻いていた。ひねくれた子どもだった。


結局、一番落ち着く格好の基本形はカジュアルなパンツスタイル。
足元はビーチサンダルがよい。海に行くときのような。
一時期、海を見ながら育ったことも影響しているのか。


美容室に行くと、目の前にとっかえひっかえ差し出される
JJやキャンキャン(スペルもよくわからん)は
突っ込みどころ満載のギャグとしか思えなかった。

付き合った人は「スカートを履け」だの「ヒールを履け」だの
キャンキャン的な服装を押し付けてくる人ばかりで疲労困憊した。

彼らの意向を取り入れようとすると、
周りの酸素が薄くなっていくようで年々息苦しさを感じていき、
窒息するかと思った。
上京してから10年近く、まるで籠の中の鳥だった。



自然体でいられなきゃだめだと思った。
というか、気張らず自然のままでいいんだ、と気づいた。

とても簡単なことなのに、年を経るたびに仮面が重くなって疲れていた。




そう気づいたら、
全てから解き放たれて楽になった。

: つれづれ : comments(4) : trackbacks(0) : posted by kay :
let each other see to the liver and gallbladder                 
評価:
上野 千鶴子
法研
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私は独りで本を読んだり音楽を聴いたり昼寝をする時間も好きだけれど、
10年近い独り暮らしを経た後、ルームシェアをしてわかったことは、
独り暮らしはもう十分だ、独りでは二度と住みたくない、ということ。

この10年間、いかに寂しかったのかがよくわかった。

自然体で一緒にいられる誰かと一つ屋根の下にいることで、
こんなにも精神的に安定するとは、と驚いた。

今週は、色々なお宅で夕ご飯をご馳走になる機会があり、
みんなで食卓を囲んでご飯を食べる、という幸せが、
いかに心に平安をもたらすか、如実にわかった。

お宅を辞してから、温かいコミュニケーションのなかで
満たされたエネルギーによって、
帰り途のステップの軽いこと軽いこと。
心の平穏具合が独りコンビ二弁当を食べた後と全く違うのだ。

独りコンビニ弁当を食すとき、それはただ、腹を満たす、という行為に過ぎないが、
みんなで食を共にする、ということには、言葉では表現することのできない、
+αがある。
肝胆相照の仲の人との暮らしで得るものは、会話、気持ちのフローの共有、
などなど、挙げればきりがない。

実家を出る前は、みんなで食卓を囲むことの意義について
全然考えたこともなく、ありがたみがわからなかった。

人間は、まさに、言葉どおり
人と人との間によって生かされているのだと思う。

しかし、気をつけなくてはならないことは、
人と人が共に暮らすときに最も利用されている現状の婚姻制度が、
多様な生き方を否定するリスクを色々な場面において伴っているということだ。
多様な生き方が許される社会でなければならない。
独りで老後を過ごす生き方も否定されてはならない。

現状の法律婚制度の是非はともかく、
私は早く食卓を共にすることのできる港を持ちたいものだと思った。


そのために、今やるべきことははっきりしている。
乾坤一擲、この突破は詰まるところ、
自分に甘いという自己の弱さとの日々の闘いにかかっている。
: つれづれ : comments(2) : trackbacks(0) : posted by kay :
work rules                 
労働法の勉強を始めて以降、うちの就業規則を読み返すたびに、
突っ込みどころを発見し、修正する必要性を感じてきた。
どこにかかっているのか不明な修飾語が多くて、このままでは
使用者にとってもスタッフにとっても曖昧で、双方に不利益だ。

この就業規則は顧問税理士さんがもってきたものをちょっとアレンジしただけで
基本的にそのまま使い始めたものだ。
顧問税理士さんは、約100件クライアントがいるらしい、
きっとどこも同じ就業規則なんだろう。。。
変更するには、色々と手続が必要なようだが、残念ながら今はそんな暇がない。。。
零細自営業だから任せられる人もいないし。
来年、やることを心に誓った。

最近嬉しいなと感じることは、一度退職した人のなかで子育て等が一段落し
戻ってきてくれる人々が出てきていることだ。
人は、出会い、別れ、巡り巡ってまた出会う、の繰り返しの中で生きているのだと
実感する。
人との出会いに限らず、音楽や、本との関係においても
似たような感覚に浸ることがある。

一度縁があってお互いに信頼関係を築いた人には、何年たっても情を感じる。
間に何年隔たりがあろうが、そんなの関係ない。


目下の課題は、スタッフが現場で問題と思ったことと、その問題に対する対処方法をどんどん提案してもらう良い仕組みをどのように作るか、ということ。

何はともあれ労働法がんばらないと。。。


: つれづれ : comments(0) : trackbacks(0) : posted by kay :
paradigm shift                 
子どもの頃は、どうして?何で?と、周囲の大人に対して思い立ったら吉日のように質問を投げかけていたらしく、うんざりした親から、静かにしなさい、とよく言われていた。

聖書のなかでずっと一番謎だったのは、
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、精霊によって身ごもっていることだ明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した(マタイ1.18-21)
という部分だ。

シスターにきいても母にきいても誰にきいても「精霊によってです」「神さまがお送りになったのです」等と言われるばかりで納得する答えが得られず、私はますます混乱した。

しかし、数ヶ月前に読んだ本で、長年の霧が若干晴れてきたような気がする。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した
という部分についても、述べたいことが色々とあるが、長くなるのでここでは置いておく。

マタイによる福音書の冒頭では、綿々と男性の生命の系図が記されている。

しかし、冒頭に挙げたように、マリアが神の霊を宿して母となった、ということを前提とすると、実は、肝心のイエスの誕生のところで、男性の系図が絶えていることに気づく。

・・・エクアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。(マタイ1.15-16、太字と下線は私が付加。)

ヨセフはイエスにとって実父ではなく、養父にすぎない。

まさに系図の真打ちであるイエスのところで、男性から男性へとこれまで連綿と続いてきた男性の系図が途切れていること
に注意して読むと、
これまで気づかなかったメッセージを汲み取ること
ができる(長島世津子『キリスト教的女性学 パートナーシップ』、門土社、1999年)。
ちなみにこの本は、昨日言及した問題児妹が紹介してくれた。

法律に限らず、旧約聖書も新約聖書も、文学も、政治も経済も全て含めて、あらゆる事象についてジェンダーの視点から再検討すると、新たな発見があることがおもしろい。


ジェンダーの視座との出会いは、私にとって“the fruit of serendipity”という感じだ。内定先を迷いに迷って辞退して偶然入った今の学校で、素晴らしい友人たちと出会い、彼等と議論する中で「あ、そう、これだよ、私が探し求めていたものは」と思ったときの喜びは言葉にすることができない。
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なぜか気になる存在                 
anan 2007.7.11号 
ここ数年のananの記事をみて、構造的に男性支配を実は助長しているのではないかと
感じていた。
週刊かつ他誌凌駕する圧倒的な購読者数からその功罪は大きいと感じて、

「読者として女性を対象としながら、一見、女性が性的自己決定権を行使しているかのように見せかけながら、実は男性支配の構造を固定化するのに寄与している出版物も多々ある。たとえば、マガジンハウスの出版する女性誌『anan』は、ここ数年、一年に数度セックス特集を組み、そこでは一見女性を性的自己決定権の行使する主体として位置づけているようにみえるものの、内容は、男性はこうすると喜ぶ、などアダルトビデオに影響を受けた言説も多く、読者が記事によって影響を受けた行為を実践をすることによって、結果的に男性支配を助長するものである。」

等とananについて偉そうに言いたい放題言うとともに、

「恋愛至上主義すぎる」と突き放していた私。

しかし、なぜか気になるのがananのすごいところだ。
なぜか気になる存在。それがanan。
何なんだろう。この引力は。
嫌いなのに動向が気になる存在、というか。
登場したころの表紙のデザインの斬新さなんかかが刷り込まれているからだろうか。

連載されている林真理子の美女入門なんかも、「けっ」とか思う箇所が多いにもかかわらず、毎回全部最後まで読んでしまう。
これは、林真理子の筆致の巧さによるものなのか。どう思われます?
ちなみに、私が生まれて一番最初におこづかいで買った文庫本は林真理子の本だった。

少し前の号(2007年7月11日号)に、
そのスタイルは永遠にカッコいい! “伝説のレディ”クロニクル。
という特集があり、それは興味深かった。
特に、
時代に名を残す3人の女性のストーリー。
というサブタイトルがついた冒頭に紹介されていた向田邦子さんの生き方、身の処し方は、
私が憧れてやまないものだ。
彼女の作品「あ・うん」や「冬の運動会」を本で読んだり舞台で観て、垣間見える情の深さと人間に対する温かい眼差しに惹かれていたけれど、
彼女の人となりを紹介されている文章に触れたのは、今回のananが初めてである。
ananからちょっと引用してみたい。
暮らしを楽しむことにかけても名人である。・・・(略)・・・伊万里や久谷焼の器を集め、上質なものでまとめたファッションは常に洗練されていた。南青山のマンションに猫と暮らし、時間があれば海外にも出かけた。友人を気遣い、引き立てたが、自分のほころびはたやすく見せず、仕事の愚痴や恋の話は口に上らせなかった。・・・(略)・・・エッセイでも、あけすけに自分をさらすことはなかった。それが流儀だったのだろう。一番深い部分は作品で昇華すればいい、という気持ちがあったのかもしれない。

この記事が載っているananを、私は大切に保管している(笑)
マガジンハウスのHP等でまだ買えるみたいです。。。
: つれづれ : comments(0) : trackbacks(0) : posted by kay :
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